私が世界情勢の安定とその維持に関心がなくなったのはとっくに昔のこと。両親が喧嘩して2週間互いに口をきかなかった時からか、それとも巨大台風が島に上陸して潜水シェルターに非難させられた時からかもしれない。いずれにせよ、八年生の頃から世界はとても脆いものだと分かってきた。
最近また、迷路の中で彷徨い謎の部屋に入らないといけないという夢を見た。部屋に入るか否かによって私と両親の人生が左右された。恐怖で体が動かなくなった私は部屋の中へ一歩も足を踏み入れることができなかった。しかし、やらなくてはならないという義務感は、その恐怖心と同じくらい強かった。いくら起きようと思っても起きられなかった。この無力感はもう耐えがたかった。ようやく起き上がり、マリー先生と会う約束をとりつけた。
マリーは手がとても綺麗だった。その長く細すぎない指と、アーモンド形の爪をよく眺めたものだ。あの完璧な美しさに私はめっきり弱く、お茶の支度をするマリーを見ているだけで癒された気分だった。そのうち自分の考えがクリアになったのに気づいた。『また武道をやらなければ!』という強い意志が沸いてきた。確かに最近の夢の中で私はいつも侍の格好をしていた。自分が成長するには合気道が唯一進むべき道のように思えた。
「合気道は相手を制することではなく、己の心身を鍛えること。今まさにあなたが求めていることよね。十分な体力と強い精神力の持ち主のあなたにぴったりよ。応援してるわ!」
テラモトさんは日本に帰った。ジャケンとカリーナはサンザシの木陰に座り朝食の支度をしていた。この二人はいつの間にかレミの親友になっていた。
カリーナの父はトランペット奏者、母はバレリーナだった。彼女自身は画家だったが、レミと共に武道スクールを設立し、レミのアドバイザー的存在でもあった。昔はたびたび喧嘩もしたが、そのおかげで互いを深く理解しあうようになった。
サカエ・ジャケンもとても興味深い人物だった。この男前がどうしてそこまで熱心にレミに尽くしているのか誰もが不思議に思っていた。彼は、日本で最も権力のある資産家の一人息子として生まれたが、幼くして天涯孤独になった。
ダイアモンド商であった親が築き上げた会社と資産のすべてを幼かった彼が相続した。同業者や大勢の親戚たちは、あの手この手を使って彼を利用しようとしたが結局思い通りにはならなかった。彼は会社を乗っ取られなかっただけでなく、より大きな企業へと成長させた。レミとは学生時代に出会い恋に落ち、一生添い遂げることを誓った。
家事の好きなカリーナは食事の支度をしていた。ジャケンはふと詩集を手に取った。
「カリーナちょっと聞いて、私が図書館で見つけた詩を」
“旅に去にし君しもつぎて夢に見ゆ吾が片恋の繁ければかも”
「なんて美しく寂しい詩なの...誰が書いた詩?」カリーナが感慨深く尋ねた。
「大伴家持という人」
「どこで見つけたの?」
「テーブルに置いてあった。」
「あぁ、レミが最近読んでいたものだわ。詩歌はあまり好きではないはず、というか聞くのは好きでも読むのは嫌いだったのに。もしかして独りではなかったのかもしれないわ。今どなたかいらしているの?」
「二人いる。一人は良く知っている人。川上さんといって、川上出版社の社長でテラモトさんのライバル。というのも、テラモトさん同様彼は日本最大の出版社の一つを所有している三代目社長なんだ。あの人が来てるなんて何かテラモトさんに関係あるような気がする・・どうしてレミはいまさら10年前のあの出来事を打ち明けたんだろう。テラモトさんはもちろん親友だけどそれでもよく分からない。もう一人の人は知らない人、レミしか知らない人だと思う。」
ジャケンは少しおもしろくないといった口ぶりだった。
「あらっサカエ君ヤキモチ焼いてるの?」
「まさか」
「いいから正直に言いなさいよ。レミがアノ人に興味を持ってると思う?」
「まぁ焼いていないといったらウソになるかもしれない。確かに彼はハンサムだし、レミが今日に限ってラーゲルフェルドのドレスを着ているのも気になるし、この詩作も...」
「馬鹿ね。レミのこと心配しすぎ。全部作戦よ!野獣は獲物を手に入れるために初めにどれくらい優しくするか知ってるでしょ?」
「あの人を利用したいってこと?そういうことなら安心したよ。私はレミに好かれすぎていじわるになってるのかな」
「そんな気にしないでいいわよ」
カリーナは一瞬物思いにふけたようだった。
「あの10年前の話ってなんのこと?」
カリーナはふと我に返っていきなり尋ねた。
「たいした話じゃないよ。テラモトさんには息子がいるんだけど、なかなか言うことを聞かないやつで手を焼いていたんだ。面倒を起こしたときにレミに預けて根性叩き直してもらおうってことになったんだけど、それはあまりにも可哀相だと思った母親が結局海外の学校にやってしまったんだ。レミのしつけは結構厳しかったから母親の気持ちも分からないでもないけど、今の彼を見るとやはりあの時レミに任せていたらよかったと誰もが思うよ。」
「まぁレミのやり方にショックを受けて息子を海外にやってしまったお母さんのことも容易に想像できるけど... あっ レミ、いいところにやってきたわ!」
ジャケンは振り替えて新しいドレスを着ている美しいレミの姿を見ました。
「あらっ、今日はドバイのプリンスでもお迎えする日だったかしら?」
カリーナはジャケンを見ながら言った。
「私も着替えたほうがいいかしら~」
レミは何も言わずに食卓につき、みんなで昼食を始めた。